MEMORY
東電福島第一原発事故から13年
事故によって避難している人たち、苦しんでいる人たちは未だにたくさんいます
あの事故から私たちは何をまなんだのでしょうか?
原発事故のこと、未来のエネルギーのこと
一緒に考えませんか?
エネルギーのいまを考える会の皆様からのメッセージです。
(こちらのメッセージは「一般社団法人うるわしの桜井をつくる会」の広報誌第96号に掲載されました)
【2023年のメッセージ】
奈良県議会議員 和田 恵治さん
東日本大震災から12年目の春ーあの思い今もなおー
2011年3月下旬でした、宗教僧が桜井駅を行き交う人に何かを叫んでいました。私は県議会議員選挙を控えて市民に訴えていたのですが、耳を澄ますと、どうやら3月11日の原発事故のことで「寄付をお願いします」と言っていたことが印象に残っています。
私が部落差別を始めとした人権活動と桜井市の自然景観保護に取組んで、県議会議員となり最初の活動が反原発でした。テレビニュースでは何かといえば原発事故です、私も団体を作って活動したいと思っていた頃、反原発に取組む県民の方から誘いが来ました。
初めてその集会の会議に行きますと、私にいきなり「事務局長を引き受けてくれ」と言われ、それから毎月1度の学習会と情報交換会に参加し、部落解放運動の『両側から超える』というスローガンを支えに、せっせと活動に励みました。また、県議会で超党派の反原発の奈良県議会議員連盟を立ち上げました。
議連では、青森から福井まで視察に行きました。福井の原発視察で印象なのは、関西電力と地元の地方自治体の元副町長が癒着をしていることを地元議員から聞き、地元議員が元副町長を批判するのは構わないが、それで部落解放同盟の印象を落としたら同盟員に申し訳ないと同盟を弁護したことや、その案内役に失礼ながら反論したことが思い出されます。
その後、桜井市では「脱原発桜井の会」会長浅川肇氏に代わって平等寺副住職の丸子氏が会長になってくれました。私は、彼の姿勢に惹かれるところ大であり、彼はよく桜井駅で署名とカンパを市民にお願いしておられますが、その回数には驚かされます。今も続けておられ、「根気よく頑張っているなぁ」と感心しています。
街頭行動に参加して反対の意志を示すのは必要だと思います。「脱原発桜井の会」は、現在「エネルギーのいまを考える会」として活動を継続されています。
市民の皆さんも、応援と協力をしていきましょう。
震災ボランティア 中森幹也さん
“ カ レ ー ”
あの日、あの時、自分は学校の2階で算数のテストの真っ最中で、一人の男の子が「地震や」と叫び教室が確かに揺れた。その後、職員室に戻るとみんながテレビの前で、信じられない映像に固唾をのんでいた、画面に向かって「早く逃げて、早く」と届かない声を絞り出している職員もいた。
3月11日の震災後、8月になって桜井市の教職員の仲間たちと現地へ向かうことができた。4日間、ひたすら三陸鉄道や家屋の瓦礫の片づけ作業を行った。被災者の方と交流したいとか子どもたちにも出会いたいとか思っていたが、そんな甘っちょろい状況ではなく、写真を撮ることすらはばかれる空気を全身で感じた。
釜石での活動を終えて、奈良への帰路の途中に、メンバーの親せきの方がおられる福島に立ち寄った、しかし、ここでもまた自分たちの甘さを痛感することになる。福島原発から遠く離れた地域に親せきの方は住んでおられ、私たちを歓迎して下さり(ように思っていた)、お世話になったお礼に三輪素麵を送ったが、そのお礼の返信には親せきの方の苦悩がしたためられていて『私たちを受け入れてもいいものかすごく悩んだ』、『桃とかを送りたいが汚染されていないか、逆に迷惑をかけてしまうかもしれない』などが記されていて、そんな現地の方の深刻な思いを受け止められていない自分が情けなかった。
次に訪れたのはその年の12月で、すごい吹雪と積雪の中を遠野市に向かう。今回は寒さの厳しい仮設住宅へ部屋の大きさにピタッリ合うように畳を敷くのが任務であった。仮設住宅に独りで暮らしているお年寄りの方、小さい子どもさんがおられる家族など、どこのお家でもみんな私たちの活動をとても喜んでおられました。老夫婦のおうちで活動しているとき、「たいしたことはできないけど、これ食べて」と昼食にカレーを作ってくれました。大袈裟じゃなくニンニク入りのそのカレーは、今までに食べたどのカレーよりも美味しくて、まさに心も体もとろけてしまった。カレーを食べながらポツポツと話されるおじさんの話を聴きながら、「東北に当たり前の日常が戻るまでは自分はカレー断ちをしよう」と密かに決めた。
2015年8月、一部再開した三陸鉄道に乗車して、自分の“カレー断ち”を終えることにした。当たり前の日常、そして原発に依存しない日常がきっと来るはずだと思っていたが、とんでもない時代に逆戻りどころか、さらに原発依存が加速されようとしている。このままでは、福島のおじさん、釜石のおじさん、おばさんに合わせる顔がない。怒りの声、命を守れの声、みんなの声を聴けという声、その声は絶対に断たない!
野澤 恵美子さん
何 の た め ?
ポツポツと雨が降り始めた。福島第一原発が煙を上げてから十日程経っていた。
掃出し窓から子ども達と灰色の空を見上げる。「黒くはない」と思った。
千葉埼玉にまたがる跨る東葛地域上空に溜まっていた放射性プルーム雲の上から、雨が降った。
その日を境に日常が変わっていく。水道水からセシウムが検出され、スーパーやコンビニから水が消える。水を探しに出る。
次女が生まれてひと月、寂しかったのか長女が一緒に行くと聞かなかった。繁華街の自販機で見つけた水。喉が渇いたと言う長女に飲ませてしまう。行き交う人を背にマスクを取り水を飲む長女の姿が、スローモーションで再生される。
雨が降った日、市川市にあったモニタリングポストは、通常2桁のところ2万を超える数値を出していた。2日後1万台、3日後は7千台。市川市より放射線量が高い柏市はどの位になっていたのだろう。
あちこち回り数本の水を手に入れ帰宅した。念の為、着替えて授乳する。秋に汚染を認めた柏市は、ガイガーカウンター等の貸出しを始める。
授乳していたベッドサイドが高線量だと判るのは後の事。着替えただけではダメだったのだ。頭髪から次女に降り注いでいたのだ。停電の合間をぬって1ヶ月健診の連絡が入る。この時、この高線量の中、外へ出してはいけなかったのだ。
庭の芝生の草引きや側溝掃除をした後は鼻血が一週間続いた。授乳の傷は治らず鉤十字のように割れた。甥がサッカーで負傷した膝はかさぶた瘡蓋が出来ないと言う。鼻血が続く話を見聞するようになり、クラスメイトが就寝中に嘔吐した話を聞いた翌朝、長女も食事中突然こぼれるように嘔吐する。 もっと早く気づいていれば。水を探しに出なければ・・・。
次女の下痢は関西に来ると止まったが、戻ると1ヶ月もしないで始まった。その間隔も短くなっていく。次女の試練はまだまだ続く。でも沢山の方に助けて頂いた。
母子避難12年目。感謝してもしきれない。お金が無くても、知人が居なくても、トイレが水浸しでも、そんな事は何でもなかった。安全な所で子ども達が元気に健やかに育ってくれれば、それだけで良かった。長女は先日18歳に、次女は春に中学生になる。だが家族離れ離れのまま、今後の見通しは立たない。元通りにはならないのだ。
何万人もの人が、今でも根無草の様に生きている。声は届かない。何事もなかったように、何事も起こる事などないかのように、原発政策転換が閣議決定された。
以下は2011年9月30日のニュースです。同じ過ちを繰り返さないように・・・
【読売新聞記事】
九州電力の「やらせメール」問題に関する第三者委員会の調査結果で、またも驚くべき事実が判明した。
2005年のプルサーマル発電を巡る佐賀県主催の公開討論会で、県と九電が事前に進行を打ち合わせ、九電社員が農家になりすまして発言するなど巧妙な世論操作の実態が浮かび上がった。
◆周到な準備◆
討論会は05年12月25日、佐賀県唐津市のホテルで開かれた。科学ジャーナリストをコーディネーターに、推進派と慎重派の学者ら6人がパネリストとして参加した。
第三者委の調査結果によると、九電は討論会を成功させるため、県に対する全面的な協力体制を敷いた。事前の県との打ち合わせで質問者の配置を決め、議事録にまとめていたという。
3連休の最終日で、クリスマス当日だったこともあり、来場者が少なくなることを懸念し、社員らを徹底して勧誘。その結果、約700人で埋まった会場の半数を九電関係者が占めた。
6ブロックに分けられた会場で「仕込み質問者」を分散させ、それぞれに支援部隊を20人ずつ配置。プルサーマル発電の安全性を印象づけるため、最後は「推進の質問」で終わるようなシナリオを作成し、県に渡していた。「コーディネーターに質問者の着席位置を伝えておく」と記載された社内資料も残っているという。
◆7人が九電関係者◆
討論会では、18人が質問に立ち、賛成派8人のうち7人が九電関係者だった。ほとんどが九電が用意した原稿を読み上げる形で発言。
最初に質問した社員は手帳を見ながら、「危ない、危ないと言われて、玄海1号機が運転を開始して30年近くたつが、私の家で作っている米とか野菜が放射能の影響で売れなくなったことはない」と農家を装った。
【毎日新聞記事】
茨城県東海村の核燃料加工会社「ジェー・シー・オー(JCO)」で社員2人が死亡し、住民ら666人が被ばくした臨界事故から30日で12年になるのに合わせ、村は同日午前、臨時の朝礼を開いた。村上達也村長は職員約100人を前に「人に冷たく無能な国に原発を持つ資格はない」と国を痛烈に批判。「脱原発」の姿勢を鮮明にした。
村上村長は、東京電力福島第1原発事故について「JCO事故時と同様、政府、東電の対応は全くなっていない」と指摘。村内にある日本原子力発電東海第2原発の30キロ圏内の人口が100万人規模であることに触れ「こういう地帯に原発があっていいのか」と述べた。
東海第2原発は定期検査のため停止しており、タービンのトラブルなどで再稼働のめどが立っていない。村上村長は「本当に原発事故を恐れている村民も多く、曖昧な妥協は許されない」と話し、民意を重視する考えを強調した。【大久保陽一】
『福島第1原発:45キロ離れた飯舘でプルトニウム検出』
福島第1原発事故に伴い、国の土壌調査でプルトニウムとストロンチウムが検出された地点 文部科学省は30日、東京電力福島第1原発から約45キロ離れた福島県飯舘村を含む同県内6カ所の土壌から、同原発事故で放出されたとみられる毒性の強い放射性物質のプルトニウムが検出されたと発表した。事故後、同原発の敷地外でプルトニウムが検出されたのは国の調査では初めて。また、原発80キロ圏内の広い範囲で放射性物質のストロンチウムも検出され、事故の影響が広範囲に及んでいることが改めて裏付けられた。